Updated 7/18/02                                          Home >>

Eメール 米倉アリス秘書電話 (415)776-3158、ファックス (415)776-0264
Gibberish? Use http://www.rdt.monash.edu.au/~jwb/jviewer.html <<< 文字化けだったらこのサイトをお使い下さい。

J-E Translation
http://www.csse.monash.edu.au/cgi-bin/cgiwrap/jwb/wwwjdic?9T
http://www.rikai.com/cgi-bin/HomePage.pl?Language=En

E-J Translation
http://www.csse.monash.edu.au/cgi-bin/cgiwrap/jwb/wwwjdic?1C
http://www.csse.monash.edu.au/cgi-bin/cgiwrap/jwb/wwwjdic?1KE

リンク:
http://www.shinrankai.or.jp, http://www.hongwanji.or.jp, http://www.terakoya.com, http://shin-y.net/dharma.htm,  http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/4022, http://kyoto.cool.ne.jp/monto, http://www2.justnet.ne.jp/~shu-taka, http://access-jp.net/amida, http://plaza9.mbn.or.jp/~Tannisho, http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni, http://www.icho.gr.jp, http://www.tcp-ip.or.jp/~ygobou, http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/1499, http://www.honganji.net/index.html
.

JULY 2002
          「お盆に思う」

 毎年夏が来ますと、、、、、
                                         、、、、、、、、、。
 佛教会のメンバーで亡くなっていかれる方を「佛」と思っておられる方々が多いのではないかと考えられます。それによって、教えを聞くことをしないで「た だ、御先祖さえ大事にしておればよい」という方々が非常に多いのではないかと思われます。佛教で教えられる因縁の教えは、死者はかならずしも佛ではないと いうことです。迷いを転じ、悟りを開く以外には成佛はありません。日常生活に阿弥蛇佛の深い願いを聞く時、必ず佛様の証(さとり)を得る身とならさせてい ただくことであります。
 佛説大無量寿経にお釈迦様の厳しいおことばがあります。「人はこの世の愛欲のきずなにつながれて生きているが、つきつめてみると、独り来て、独りゆくの であって、すべては自分自身が、その責任を負わねばならない。だれもこれに代わることはできないのである」、と。私達の世界は、一見、家族と友達がいて、 助け合いながら生きています。そしてそのきずなが、いつまでも切れないように願い望んでいますが、悲しいことに、そのきずなが切れる時が必ず来るのです。 その時は、ただ、独りで去っていくのです。頼りにしていた人もついてこないどころか、ついてくることができないのであります。そして、人それぞれのまいた 種が次の境界を生み出していくので、その責任は、自分自身が背負っていかなければならなく、だれもこれに代わってくれません。
 ある方を見舞いに行き、「元気になって、また、お寺に出て来てくださいよ」と言ったのをおぼえています。しかし、今もなお大切なお言葉として思い返すの は、その人の返事でありました。「今度は。。。もうだめよー。。。せんせいがネクストかもしれんよー。。。」と。立派な御同行のお方であり、今年は確か故 人の13回忌にあたります。
 人のことをどうしてあげることも出来ないどころか、ご先祖さえ、いや自分自身の心や身体をもどうすることも出来ない人間を呼びかけられる声が南無阿弥蛇 佛です。

                                            合掌
                                            安孫子 洋



Buddhists shall kick unholy habit. Let us help Buddhist leaders fight the tobacco habit to become role models for unenlightened people. "Buddhist leaders are key people in society and are well respected. We need them to educate people not to smoke," said Seng Somony (2002), deputy director of the National Buddhist Institute in Phnom Penh. We have to get Buddhist leaders to quit smoking." Buddhist tenets forbid smoking cigarettes as well as using drugs, drinking alcohol, violence, exploiting other human beings. Education is the best way to reduce the cost of ignorance. . .

JUNE 2002

「知恵」と「智慧」

 最近の色々な調査や、お寺で実際に受ける相談などを総合してみますと、今の世の中の家庭をむしばむ悩みとして、生活苦と、子供の非行、それに離婚 の三つがあげられる様です。これらの問題は、それぞれのケースによって違いはありましょうが、その原因をさぐってみますと、一つの大きな根から生まれてい るように思えます。その原因を深く考察し、根本的な解決を求めなければなりません。
 たとえば第一の生活苦の問題ですが、これは冷静に前後のことを考え、「入るを計って出ずるを制す」の心がけさえあれば、起るはずのないことでしょう。今 日では、いくら不景気続きだからといって、その日の食をいただけないことはまずないでしょう。ましてや、家庭人としての夫や妻が、セービング等を出す必要 はないはずです。それなのに、なぜ借金をするのでしょうか。ズバリ言って、佛教で教えて下さっています「貧」と「痴」が心を惑わすからであります。「と ん」とは、満足することをしらず「もっと欲しい」「あれも欲しい」という貧り(むさぼり)心です。「痴」と言いますのは、前後の考えもなく、衝動のままに 行動する痴(おろかさ)のことであります。ある欲求が起りますと矢も楯もたまらず、収入額のあてもなく、つい貯金から借りてしまう。これが「痴」なのであ ります。この「貧」と「痴」は、あとさきを深く考える配慮と、忍耐して自分の態度の欲求を抑える自制心、つまり、人間の理性、知恵で防ぐことが出来る迷い であります。
 この頃の一般家庭は、生活があまりにも楽になり過ぎて、経済に対する考えが甘くなっているように思います。非常にタガが弛んでいるようであります。「入 るを計って出ずるを制す」というより、今はむしろ「出ずるを制す」を先に立てるべきではないかと思うのであります。それも日々の生活の色々な面に細かい知 恵を働かせば、長い間には大変な節約が出来ましょう。もちろん、そういった心遣いは金額の問題だけではなく、生活意識の全体を健全なものにしていきます。
 随分と増えました少年非行や離婚の問題になりますと、たんなる理性や生活の知恵のみでは出来ない原因があることが、よく分かってきます。と言いますの は、家庭内の人間関係は、それが親密でありますだけに、かえって心理の深層にからまりや、しこりを生じやすいからです。家庭外の人達との人間関係には、時 間的にも空間的にも、心理的にもある距離があります。たとえば、仕事の上役の人がいくら憎らしくても、大声で罵ったり、一切口をきかないと言うことはでき ません。そこに「忍耐」と言う心がはたらくからであります。それに対して、夫婦や親子の間柄では、血の繋がりがありますので、物質的な関係も濃く心のしが らみも深く、しかも毎日同じ家で暮らしているのです。うまくいきますと、これほど親密な間柄はありませんが、逆に何かのくいちがいが生じますと、それがど うにもならぬこだわりとなりやすいのであります。そして俗にいわれます「可愛さ余って憎さ百倍」と言う事にもなりかねません。
 そういう事にならない為には、「人間の知恵」だけではなく、佛の「智慧」が必要になってくるのであります。佛の「智慧」とはどんなものかと言いますと、 それは「目に見える現実の世界はもとより、目に見えない心の世界まで、その真実を見通す心のはたらき」であります。それを三つに分けて教えて下さっていま すのが「3法印」であります。第一は、「すべてのものは変化する」、第二に「すべてのものは相依相関、持ちつ持たれつして存在している」、第三に「すべて のものがバランスよく存在している時に安らぎがある」という真理のはたらきをハッキリ見ることであります。春の次には、夏が来て、秋が来て、冬が来る。景 気が良いあとには不景気が来るという変化がある事をみ通して、それに備え、忍耐をして行く。これが佛様の智慧に照らされた生活態度であります。
 では、こうした見えない世界、微妙な心の世界を健全に保つにはどうしたら良いかと言いますとそれは毎日の生活の中に
佛法に聞き、学び、それを実践して行くのが第一の道だと確信します。               合掌
                                            安孫子 洋



MAY 2002

「もったいない」

 先週の日曜日は本堂いっぱいの参拝者で、美しく飾りつけられた花御堂の中に置かれた誕生佛に甘茶をかけてお釈迦様の誕生を皆で祝いまし た。子供達に迎えられて本堂の宙に浮かんだ白い像は、皆様もびっくりなされたと思います。佛教徒にとって、一番めでたく、楽しい法要は今も、なお、「花祭 り」であります。しかし、その意義をも大切にせねばなりません。華やかな表面には、次の様な教えが潜んでいます。
 大無量寿経には、佛様がこの世に出て下さった意味を、次の様に教えて下さってます。「如来は、この上ない大慈悲の心で、世のあらゆる衆生、生きとし生き るものをあわれみたもう。この世に如来が現われたまうわけは、佛の教えを説き、真実の利益を恵み施し即ち無限の生命と光明、生きる智恵を与えて、苦しみの 世界より人々を救う為である。はかり知れない長い間にも、如来に会い、その教えを聞くことは、本当にむずかしい。もし佛の教えを聞くことが出来たら、それ は丁度、三千年に一度開くと言われている優曇華(うどんげ)の花を見るようなものである。されば得難き人の世に生まれ、この遇い難き佛法を聞く事の出来た 者は、一日も早く、この佛心を頂き、佛の呼びかけに帰入して、迷いの苦海より脱ぎ出して生きなければならぬ。」
又、お釈迦様がこの世にお出ましなされた意義について、親鸞聖人は「正信げ」に次の様に教えて下さってます。「如来、世に興出したまう所為は、唯弥陀の本 願海を説かんとなり、五濁悪時の郡生海、まさに如来如実の言を説かんとなり。」とありますのは、お釈迦様をはじめ、諸佛が各々の国に出現なされるのは、 唯、阿弥陀様の御本願、久遠の真実を教えて下さる為であり、末法時代の濁りに濁りきった世界に、私達が生きていくには、この御本願を信じさせて頂かなけれ ば、生きていくことが出きないぞとの御示しであります。そして、この御本願は、名号となり、光明となって、私達に働き続けて下さっているのです。それは、 阿弥陀様のやるせない御本願がお呼びの声のお念佛となるのです。
この阿弥陀様のお心であるお念佛を聞き開いた人を妙好人(みょうこうにん)と言います。お念佛の名人とも、達人とも呼ばれ、念佛行者の見本を示す人と親し まれる方です。その妙好人の方々がよくお使いになる言葉に「もったいない」というのがあります。日本語の中で、最も意義のある言葉の一つと思われますが、 その一言には、「ありがたい」と「かたじけない」の二つの心が含まれていると聞いています。要するに、
       人間に生まれたことの、ありがたさ、
          お念佛に遇うことの、かたじけなさ、
             今日こうして生かされていることの、もったいなさ。
「あたりまえ、たりない、おもしろくない」の口癖が「ありがたい、かたじけない、もったいない」の口癖になってこそ、毎日を確実に生きる人になるのではな いでしょうか。

                                            合掌
                                            安孫子 洋



BCSF CENTENNIAL DONOR RECOGNITION WALL

サンフランシスコ仏教会100周年記念「懇志名壁」

1998年のサンフランシスコ仏教会の100周年から早3年がたち、
待ちに待った「懇志名壁」が設立いたしました。2002年4月7日、
名壁の除幕式がサンフランシスコ仏教会花祭の式典後、行われました。
寛大なご寄付、ご支援をお寄せくださった会員はじめ友人の皆様に心
より感謝いたします。どうかこの「壁」をエンジョイなさって下さい。

合掌

小野テレサ
サンフランシスコ仏教会
100周年記念実行委員長

.

MARCH 2002

「お彼岸」

 争い、不況、不信。。。日数の少ない2月はあわただしく過ぎ去って行きます。終戦、景気回復、信頼感、そして和やかさが必然として念願せずにはお られない3月が来ました。「お彼岸」が早くくれば。。。と、誰もが望んでいることでありましょう。
 「お彼岸」とは、インド佛教の波羅密多という言葉を訳したもので、「到彼岸」とか「悟りの彼岸に到達する」という意味です。こちらの岸は人間の世界、あ るいは迷いの世界で、彼の岸は、佛の世界、お浄土の世界というふうに受け止められます。昨今「暑さ寒さも彼岸まで」と言われていますのは、気候も好ましく なったこの新春、お互いに平生忘れがちであったお浄土の世界を聞思するという事です。ここで、もう少し、詳しく説明しましょう。佛教徒が「お彼岸」の法要 を勧めるようになったのは、いろいろな説があり、聖徳太子の時代からだとも、聖武天皇の時代からだとも教えられていますが、記録上あきらかに出てくるのは 垣武(かんむ)天皇 の延歴25年(806年)2月17日(旧暦)に太上官符(だいじょうかんぶ)に五幾・八道に彼岸会を営むべき事を布告されてあるのが初めてであります。 又、「比岸」より「彼岸」に到達するに、六波羅密の行が教えられています。それは、布施(ほどこし)、持戒(つつしみ)、忍耐(たえしのぶ)、精進(はげ み)、禅定(こころのとうつい)、知恵(ちえ)、の六つで、菩薩が佛になるための実践行とも教えられています。しかし、これらの六度の行を本当に修行し実 践なしとげるのは大変難しいことであります。その反面、難しいから、といって、ほっておくのもいけません。肝要は、「どんなにあせってみても、今、出来る ことは、一つしかない」、とのことわざのように、自分に出来る範囲のことをするのが大切だと思われます。自分には無理なことを試みるのは衆生で、その人に はきっと苦しみがあるのです。自分に適したことを、よろこんで、させてもらう人が、「彼岸」へ向かう人ではないでしょうか。
 お念仏は世界で一番「わたくし」にたやすく出来ることです。同時に、お念佛程、わたしが完全にできることは他にありません。と、言いますのは、わたしが となえるお念仏は、そのまま「彼岸」である如来の大悲の活動の姿であるからです。佛様の活動がわたしのお念仏となってあらわれているのです。いわば、如来 さまの生命がわたしの生命を通わして生きはたらいているすがたが、わたしのお念佛なのです。
 「風は見えないけれど、風のすがたは、なびく草の上に見える」とのことわざは、念佛者と佛様の関係を見事に現しています。いくら風をつかまえ ようとも、見ようをしても出来ません。花びらが散るとき、枝が揺れる時、紅梅の香りがする時、必ず風が仕業しています。同じ様に、佛様のみすがたは凡夫の 目には見えないのですが、無量寿・無量光の佛様の願いに答えつつ、その御名をとなえるわたしのお念仏の上にあらわれています。
 皆で出来ることをやっていこうではありませんか。

                                            合掌
                                            安孫子 洋


FEBRUARY 2002

「 足 」

 2月は立春の月で、春を迎えた月です。寒い冬から太陽の光によって、ようやく大地がよみがえり、草も木も私達も一緒になって光を喜ぶ月でありま す。又、かなり降ったこの冬の雨で、この春は、草も木もよく育つことでありましょう。
  子や孫の最初の一歩ほど嬉しいものはありません。その反対に、老人はまず足からだめになっていくそうです。昔、東京では銭のことを「おあし」と言ったそう で、金銭の大切なことを印象的に言い表わしています。又、その起源は解りませんが、「足」に「る」をつけますと「足る」と読みます。このようにして、足が 考えられますのは、人生のことはすべて足がよく動かなくてはだめであるといえます。
 ある師匠が「足動かざれば道成らず」と教えられたそうであります。終始、御佛様の教えを伝えて歩かなければ、佛教は、発展しなく、安らぎを与えることが できない、と教えています。御開山の親鸞聖人が嵐の中、雪の中を御足労されなかったならば、今日の私達は真実のお念仏の教えに聞くことも許されなかったと 思われます。昔、貞信尼というお婆さんがおられ、本当によく歩かれたそうです。そのお婆さんは阿弥蛇様のお慈悲を大変悦び、感謝しつつ、行く所、留まった 所で御慈悲を語り、同信者をつくって、足と信心を一つして諸国を廻られたそうです。
 私達は多くの場合、信仰、信心の姿を手において表現して「合掌」と呼んでいます。しかし、信は全身で頂くものであり、手も足も、耳も口も顔も、全身の一 部であり、どれ一つをとっても全身の象徴となるのです。伝道の行脚ということは、足による信心の姿であり、足を動かさねば、道もならず、求道も成立されま せん。
 ようやく、春がやってくる時節になりました。だんだんと動かなくなってくる足を、今動かして、真実信心のみ教えを聴聞することこそ、本当の幸せの第一歩 です。

                                            合掌
                                            安孫子 洋

                悟りを開け                 転迷開悟                 

瞑想や修行の目的を「煩悩破壊」とする宗教的立場をとる人たちがいることは知っています。神秘体験といわれる変性意識体験に、「煩悩破壊」という意 味合いで宗教的価値を与えようとする意図も理解できます。つまり、自分自身の心の穢れ、欲望、執着、苦、恐怖、また敵対や霊障などの原因が自己の煩悩であ り、これを滅却する、もしくは、「煩悩を破壊する」ことに、大きな意味があり、瞑想の神秘体験がこれをもたらすので、神秘体験には、宗教的な価値があると する主張でしょう。特に神秘体験は 圧倒的な個人的な超常体験であるため、何らかの意味付けをしたくなる気持ちも分かります。 私の答えは簡単です。どのような理由付けをしたとしても、神秘体験という出来事そのものは、単なる脳内現象であり、なんの意味も、宗教的価 値もないということです。別に催眠や薬物ではなく、正当な禅の瞑想をしたり、チベット密教の瞑想をしたり、何をしておきたとしても、神秘体験 そのものには、何の意味も価値もありません。また、「煩悩破壊」という概念も自己矛盾と考えます。「破壊したい」、「破壊する」という欲求、 行為そのものが、煩悩に囚われている顕われです。  たとえば、仏教は、煩悩を破壊することを目的としているのではなく、「もともと煩悩などというものはない」ということを悟れとしています。 禅者松原泰道老師の著書「道元」では、このことが以下のように述べられています。

 達磨の禅法を伝えた中国禅第五祖の弘忍(ぐにん)の高弟である神秀 が、さとりの心境を

 身是菩提樹  心如明鏡台  時時勤払拭  莫使惹塵埃

「身はさとりを宿す樹のごとく、心はもと清浄な鏡のごときもの、ゆえに常に汚れぬように払い吹いて、煩悩の塵や埃をとどめてはならぬ」として、煩悩 をことごとく滅する修行の大切さをうたいあげます。これが、煩悩破壊」のために瞑想、修行、神秘体験をすることに宗教的価値が あるという立場と同じ考え方です。

これに対して、中国禅第六祖の慧能(えのう)は、以下のように批評して います。

 菩提本無樹  明鏡亦非台  本来無一物  何処惹塵埃

「菩提という樹も、明鏡という心もない。菩提もなければ、煩悩もない。 本来無一物だ。塵埃のよりつくところもないから払拭の必要もないではないか」といっているのです。まさに「一切法は空」です。これは、私の考え方と合致し ます。 煩悩などというものも、もともとないのだとということです。煩悩を破壊しようという心で修行、瞑想をしているうちは、ますます煩悩に囚われるだけだという ことです。

ご意見、ご反論をお待ちしています。

Dr. T


2002年2月

                悟りを開け                転迷開悟                 

JANUARY 2002

新年のごあいさつ

あけまして おめでとうございます!
 御陰様にて、サンフランシスコでの初めてのお正月を迎えさせて頂いております。昨年は、新任でもあり、初顔合わせでお世話になりました。転任後、色々な 法要や会合等を通じて、皆様とのふれあいをありがたく思い、御礼申し上げると共に佛様の御はからいとして、御縁有難く思います。どうぞ、今年も宜しくご指 導の程お願いいたします。
 さて、新しい年の初めにあたり、ご挨拶申しつつ所感を述べさせて頂いておりますが、ポカポカの陽気の為か、早くもボケがきたのか知れませんが、一向に歳 末と正月の気分がしないのであります。良く考えてみますと、年の区切りは、人間が考え、決めたことですから、もし南半球で先にカレンダーができていたなら ば、お正月は今の7月頃になっていたかもしれません。佛教歴ですと、お釈迦様がお悟りを開かれたのが始まりですから、今年は、2545年です。日本では、 平成14年となってあります。又、日本では、元旦から春が始まると考えられ、お正月には「迎春」とか「新春」とか言われます。俳人の一茶も、
     めでたさも 中位なり おらが春
と歌っておりますように、めでたさは自分に都合のよい時だと思っているのが人間なのであると教えて下さっています。ところが、浄土真宗の教える阿弥蛇様 は、めでたいもの、めだたくないもの、うれしいのも、うれしくないのも、全部、引き受けて下さるのです。そして、その名のとおり、限りない光と寿の佛様な のですから、南無阿弥蛇仏には限られた私のいのちが、永遠のいのちに包まれていることを教えて下さる仏様のおよび声なのです。
 昨年は、9・11の反人類テロを始め暗いニュースが多かった様です。この一年、尊い命を、どんなことがあろうとも、一日一日、南無阿弥蛇仏とともに大切 に過ごさせて頂きましょう。

                                            合掌
                                            安孫子 洋


DECEMBER 2001

師走の月に思う

 光陰矢のごとしといわれてますが、本当に時の流れには止まりや逆流がありません。新年を迎え、新 地でお盆会、秋の彼岸会、永代経にてお参りし、あれこれしておりますと、もはや、年は、流れ、歳末がせまってくるのです。たしかに、一年中で、歳末の師走 の月ほど過ぎ去ったに日々のことを、つくずく惜しみながら思い出させる月はありません。以前のことですが、一年間はもっと長かったように思い出されます。
 佛様はこの地上のものは、すべて流転しかないと、そして、一切にものは無常であると言い聞かせて下さっておられます。ですが、この一年を通して、どれだ け仏様に耳をかたむけたでありましょうか? ただあわただしく月日の流れに流されて、落ち着きなく流されていたのではなかろうか? 浅瀬の流れは、いつも ざわざわと一瞬もじっとしていない。人間の心も浅瀬にまけないほど、一年中ざわついている。すべてが無常と聞いておりながら、ついにんげんはなお目の前の ことにとらわれ、それに血眼になってもがいている。これがこの時代の象徴であるとか、それが人間の業であると言う人もある。しかし、だからといって、それ に甘んじているならば、無常の流れに巻き込まれ、そこからのがれることができない。では、どうしたらよいのか?無常の世界にあって、無常を突き破ることが 肝心なのではないか。その為に佛様の教えがあり、お念佛の道があるのです。
 この一年を通して、どれだけ聞法の時をもったのであろうか。ただただ忙しかった問いえるだけでと言えるだけで、み法を聴いた時間はあまりにも、、、、、

                                            合掌
                                            安孫子 洋


NOVEMBER 2001

お参り

 つかの間に今年もあと2ケ月になり、桑港の冷え込みはどんなものかと予測をしております。皆様に は御健勝にて日々をお過ごしでしょうか?
9・11の惨事より、又戦争になり、平和を保つむずかしさが知らされます。
 佛教の中でも浄土真宗程、お参りを大切にする宗教はありません。参拝者がなくては、どんな立派な建物でも、お寺とは呼べません。又、礼拝のない人は、泳 げぬ魚と同じで、せっかくの教え(水)を自分のものとして生かすことができません。同一の教えに生きるものは、たとへアメリカに住もうと、アフガニスタン であろうと、へだたり超えて同一の礼拝ができねばなりません。この世に生きる者は、皆、同一の水を飲んでいます。しかし、同じ水であっても、養う乳になっ たり、殺しをする毒にもなったりします。同じ水をどう役立てるかは、一人一人のこころしだいであります。そのこころを養うものこそ真実の教えであり、お参 りする中に聴き正されるのです。
 中国の古語に「患?、春秋をしらず」というのがあります。?とは蝉(せみ)のことで、蝉は夏生まれて、夏中鳴いて、そして、夏死んでいく虫ですから、夏 の前に春があったことも、夏の後に秋がくることも知りません。前と後に春と秋を知らないということは、今が夏だということさえも知らないのです。人生も同 じようで、生まれる前の世界も、死んでゆく世界も知らないにもかかわらず、今の人生を知ったように平気でいるのが現実の私ではないでしょうか。
 お参りして、一緒にみ佛様の教えを聴きましょう。

                                            合掌
                                            安孫子 洋


OCTOBER 2001

お彼岸

 夏を飾った今年のお盆・バザーも大成功の中に終り、実の秋がやってきました。夏休みだけでどれだけの御縁を戴いたことか。初めて出会った方々や、 懐かしい方々をお浄土へお見送りしたり、多忙な夏であった。彼岸花の咲く季節を迎えて、ようやく、先人の教えに、落ち着いて、耳をかたむけることでありま す。
 「お彼岸」とは、インド佛教の波羅密多という言葉を訳したもので、「到彼岸」とか「悟りの彼岸に到達する」という意味です。こちらの岸は人間 の世界、あるいは迷いの世界で、彼の岸は、佛の世界、お浄土の世界というふうに受け止められます。昨今「暑さ寒さも彼岸まで」と言われていますのは、気候 も好ましくなった今日、お互いに平生忘れがちであったお浄土の世界を聞思するという事です。佛教徒が「お彼岸」の法要を勧めるようになったのは、いろいろ な説があり、聖徳太子の時代からだとも、聖武天皇の時代からだとも教えられていますが、記録上あきらかに出てくるのは垣武(かんむ)天皇 の延歴二十五年(806年)二月十七日(旧暦)に太上官符(だいじょうかんぶ)に五幾・八道に彼岸会を営むべき事を布告されてあるのが始めてであります。 又、「比岸」より「彼岸」に到達するに、六波羅密の行が教えられています。それは、布施(ほどこし)、持戒(つつしみ)、忍辱(たえしのぶ)、精進(はげ み)、禅定(こころのとうつい)、智慧(ちえ)、の六つで、菩薩が佛になるための実践行とも教えられています。しかし、これらの六度の行を本当に修行し実 践なしとげるのは大変難しいことであります。その反面に、難しいといって、ほっておくのもいけません。肝要は、「どんなにあせってみても、今、出来ること は、一つしかない」、との諺のように、自分に出来る範囲のことが大切なのです。自分には無理なことを試みるのは衆生で、その人にはきっと苦しみがあるので す。自分に適したことを、よろこんで、させてもらう人が、「彼岸」へ向かう人でありましょう。
 お念仏は世界で一番「わたくし」にたやすく出来ることなのです。同時に、お念佛程、わたしが完全にできることは他にありません。と、言います のは、わたしがとなえるお念仏は、そのまま「彼岸」である如来の大悲の活動の姿であるからです。佛様の活動がわたしのお念仏となってあらわれているので す。いわば、如来さまの生命がわたしの生命通して生きはたらいているすがたが、わたしの称名念佛なのです。
 「風は見えないけれど、風のすがたは、なびく草の上に見える」とのことわざは、念佛者と佛様の関係を見事に現わしています。いくら風を計ろう とも、見ようをしても無理です。花びらが散るとき、枝が揺れる時、凧が宇に舞う時とう、その時には、必ず風が仕業しています。同じ様に、佛様のみすがたは 凡夫の目には見えないのですが、無量寿・無量光の佛様の願いに答えつつ、その御名をとなえるわたしのお念仏の上にあらわれています。
 皆で出来ることをしようではありませんか。

                                            合掌
                                            安孫子 洋



September 2001
             霧の街

 就任して、早、二ケ月目を迎えました。参って下さる方々のお顔とお名前を数人ずつ覚えていっております。何しろ範囲の広いサンフランシスコですの で、慣れるまでは日にちがかかりそうです。
 中国の古い諺に「冷たい飯と、冷たい茶はがまんができても、冷たいことばと、冷たい眼差しには耐えられない」というのがあります。いつの時代で も、場所でも、私達人間の願いは、安らぎとよろこびのもてる日々を送りたいものです。しかし、いかにあかあかと電灯のついている家でも暗い家庭があった り、ヒーターがついていてもさむざむと感ずる時もあります。
 未だパロアルトから毎日通っていますが、サンフランシスコに着くなりジャケットを急いで着ます。その様子を見ておられたのか「先生、イッツ コールド  イン サンフランシスコ ビコーズ オブ フォッグ」と声を掛けて下さいました。明るい、暖かい声でした。
 人間は菌と違って、暗くてじめじめした中に生きることができません。光を求め、光を受ける人生、そこにこそ本当の安らぎとよろこびが持てるのです。
 佛様は、欲といかりと愚痴にさいなまれている私に、清浄光、歓喜光、と知恵光の三つの光を以て照らし救いとって下さるのです。ほんとうのあかるさとあた たかさに、遇い得て、ほんとうの安らぎとよろこびが得られれば、光は、すでに溢れているのです。

                                            合掌
                                            安孫子 洋


August 2001

はじめまして

 確か九才の頃だったと思い出すのですが、日本からこちらへ帰って来る時、プレジデント・クリーブランド号のデッキに立ち、金門橋をくぐり、やがて 目前に広がったサンフランシスコの街並びに何か深い感銘を受けたのは今でも忘れません。桑の木や、落ちついた情緒は時代変化に流されてしまったようです が、幼い時の強い印象は時が経つ程、深くなっていくと聞きますとおりで、50年後の今でも、この街は何かしら心を揺らがします。この度、大好きな街にある お寺へ、教団より任命を受け、お邪魔することになりました。どうぞ、宜しくお願い致します。皆さんの御期待にお答えできる様、頑張っていく所存でありま す。
 教団本部の総長室佛壇の右に軸が飾られてあり、浄土真宗本願寺派本願寺第二十一代門主、明如宗主の実筆と聞いております。軸には、
          海外
              布教
                    光尊
              もとよりも ひとに
                 へだては なかりけり
              ひとつ みのりの
                 たねや しかまし

とあります。米国にお念佛のみ教えが広がる願望のお心ですが、どの時代にあっても、忘れてはならぬ御教訓であります。サンフランシスコから発展して 行った教団は、絶えず初心へ戻り、一人一人がお念佛の種をまいていかなければなりません。み佛様のお呼び声でありますお念仏を、皆様と一緒に聴いていこう ではありませんか。はじめまして、どうぞ、よろしく。 合掌
                                            安孫子 洋


02/01

ダーマ・コーナー 「涅槃の日」

 2月15日は「涅槃(ねはん)/釈尊入滅(しゃくそんにゅうめつ)の日」。この日、ゴータマ仏陀は、たくさんのお花に囲まれ、2本の沙羅の木の間 で横たわり御亡くなりになった。廻りに集まった人たちに捧げた最後の御言葉は「私が死んだ後は、わたしの教えが皆の導きになるだろう。自分自身に正直であ れ。私の教えを実行する者、私の教えで生涯を送る者は、常に私のそばにいる。私の側近にいても、教えを実行しない者は、私のそばにいない。万事、万物は、 ひとつの状態から次の状態へと、常に変化し続けている。全ての物がこの自然の法則に従うのである。私も例外ではなく、その日が今来た。万物が変化する法を もってすれば、私の肉体が滅んだとしても何ら変わりはない。この肉体は、仏陀ではない。悟りが仏陀である。わたしの死を惜しむのではなく、自分自身の悟り を考えて欲しい。 悟りが開ければ、我々みんなが一つに成れるのである。あなた自身の光を見つけなさい。」であった。 2月15日、世界の仏教徒は追悼式を行う。これに足並み会わせて、我々も再度御布施をして、悟りを開こうとするのである。  「生と死の超越」と言う言葉は、しばしば仏経典に現れる。生と死とは、同じ課程における変化の段階である。生の延長に死がある。生と死は、同一物である こと。同一存在における異なった段階、同じ生命なのである。生命の同じ課程において、花が咲き、散って、種を撒き散らしていくと同様に。発芽が始まりで、 花開が終りではない。終りは、始まりである。始まりは、終りである。しかし、我々は、生からの離別の悲しさに取り付かれているため、誕生はいいが、死は悪 いと感受する。最終分析においては、我々は、死を恐れたり、死に驚いては、いけないのである。  「我々は、自然と一体化しているが故、病や死は、人生において避けられないものである」と 仏陀はおっしゃられた。物が常に変化するのは、当然のことで ある。死だけが何故悲しいことと、我々は考えるのか。死は、恐れるものではない。我々は、生活することや考案することに勇敢であるように、死に対しても勇 敢であるべきだろう。生死を超越すること、死に対して拘りを持たないようにすること、人生から切り放さないこと。万物に意味があり、成就する。我々は、常 に死の準備をし、万物に対し「ありがとう」と静かに、自然に、安らかに「さようなら」と言えるようにならなければいけない。たとえ死の間ぎわにあっても、 この不乱の心は、すばらしいものである。これが、仏の最後の教えだった。 我々は、これを学び、この理解と心構えを日常生活の全てにおいて持つべきであ る。

クボセ・ギョウメイ The Center Within による

Buddhistic view on death
All things and all lives are constantly changing, passing from one state to another. All are subject to this universal law of change. One's death is no exception. Because all things change it does not make any difference if one's physical body passes away. Do not concern ourselves with one's passing away, but concern ourselves with our own enlightenment... The phrase "to transcend birth and death" tells us: Life and death are different phases of the same process. A continuous birth of life takes place and at the same time a continuous dying. Living and dying are the same things. It is the same life, just different phases of the same existence. Just as a flower blooms and scatters seeds in the same process of life. Budding is not the beginning and flowering the end. The end is the beginning. Because we are so attached to the sadness of separation, we feel birth is fine and death is bad. In the last analysis, we should not be surprised or afraid of death... Sickness and death are unavoidable in life because we are one with nature. The continuous changing of things is natural. Why do we think death is only a sad event? Death is not something to fear. Transcending life and death is not to become disinterested in or detached from life. Everything has meaning and fulfillment. We should always be able to say "thank you for every thing" and quietly, naturally, and peacefully say "Good-bye." Even at the last moment of life, this undisturbed mind is a beautiful thing. We should learn and have this understanding and attitude in our everyday lives.



会員、友人のみなさま

サンフランシスコ仏教会会長として最後の御挨拶をさせて戴きたく存じます。今、悲しいけど、また、逆に興奮した気持ちでもあります。これからは、私 の言うことを聞いて貰えない(冗談)、垣内チズ新会長と共に新しいアイデアを掲げ、新しい発展を展望しております。

サンフランシスコ仏教会理事会、特に重役委員会(小田部シャロン、松岡ジェフの両副会長、伊藤ユリ、広田竜太郎の両記録係、西本エド会計係、金子ユ ニス、山田実の両会計補佐、それに大島ジョージ会計監査)の献身的なご支援、ご苦労に感謝致します。長老役として私どもの運営に間違いが起こらないように 見守ってくれていた、羽入昇氏、岩瀬方子氏、松田ケント氏、里田ヨネ氏に特別感謝致します。

仏教会運営がスムースに行くようご努力下さった、仏教会スタッフの方々、九条開教師、佐々木開教師、福田慈子氏、宜志布恵子氏、米倉アリス氏には、 われわれ心から感謝いたします。すばらしいチームで、いつもお願いした以上の仕事をしてくれました。

理事会を代表して、全会員の皆様、仏教会付属団体、サンフランシスコ仏教会を今日にしてあるこのすばらしい組織に育て上げる為に貢献されたボラン ティアでご奉仕された方々に感謝いたします。ボランティアの方々は、正に仏教会の「命の綱」と申しましょうか、仏教会の行事を進行する上で無くてはならな い貴重は存在なのです。献身的かつ貢献心があってするこの教会の奉仕活動、ボランティア活動には、家族や仕事の時間をとられます。ボランティアをされる方 には蔭の苦労や仕事がつきまといます。特に「ご苦労さまです」の言葉をあげてしかりでしょう。

わたしたちがこれまでに成し遂げた実績に対しては、理事会、会員、仏教会の友人の皆が感謝を受けるに値するでありましょう。過去2年、皆様の信頼を 受け、仏教会会長としてやってきたことの全てを振り返って「よくやった」と自分自身に言えると思います。「本当かどうか」信じて貰えるかどうかは、別とし て、私自身、この任務、楽しんで参りました。仏教会会長職を私にさせてくださいまして、ありがとうございました。ごきげんよう。

合掌

2000年12月

小野テレサ


教会の皆様

 私のサンフランシスコにおける10年にわたる開教師生活に寄せて下さった友情、ならびに御支援に対し心より感謝の意を表します。皆様と御一緒出来 た過去10年、感謝の念を込め、本当にいい思い出であり、わたくしのアメリカ開教師歴からいってもやりがいのあるものでした。

 教会が私に下さった寛大なご寄付金、送別晩餐会、昼食会に対して深くお礼申し上げます。

 皆様が知恵と哀れみに基する真の僧教団に成れますよう、お祈りいたします。私同様、次の開教師に御支援いただくことをお願い申し上げ、さらに教会 を支え共に皆様がより一層御成長されますよう心からお祈りいたします。

 合掌

 2000年12月

 佐々木ラバーン開教師

 菩薩六種の行  慈善・ふるまい・努力・忍耐・ 黙想・知恵 



ダーマ・コーナー

大晦日の礼拝の式は除夜の会と呼ばれる。出席者は阿弥陀ブッダの聖堂の前に集まって一年間に起こった諸事を静かに思い起こし、阿弥陀様の恩恵に感謝 する機会である。ろうそくに火を灯し、線香の煙の線が万物のはかなさ、無情を我々に思い出させる。 上記に象徴される教えの如く、年も過ぎ去るものの一つである。

除夜の鐘は、凡夫(ぼんぶ)が持っていると言われる108の苦難に打ち勝つ象徴として鳴らされる。(108の煩悩を除去する意味で鐘が打ち鳴らされ る。)花山信勝僧正の「おじゅずに纏わる話」の中で説明されているように「仏教では6つの感情が認知されている。すなわち、感情は、視覚、聴覚、臭覚、味 覚、触覚、それに知覚によって生ずる。 これら一つ一つの感覚が良い思い、悪い思い、無関心な感情、など18の感情から成っている。更に、良い思い、悪い 思い、無関心な感情は、それぞれが2つの種類に分かれる。快楽につながっているものと、つながっていないもの。18の感情を二倍すると36。この36の感 情は、人間が過去、現在、未来に渡って表された基本感情である。よって、36を過去、現在、未来と掛ければ、108の苦難になる。

108の除夜の鐘の音は、我々人間の弱さを知らせ、人生を深く反省すべく思い出さす。年の暮れ大晦日が我々に過去一年を思い起こさせ、同時に来る 年、未来を見つめさせる。

蹴り跳ねて
振り向きもせず
年越さん
仙覚
 (訳者の意訳)

藤本芳彦開教師による(BCAパンフレット)



「悟りの日」

 12月8日は「ボタイ(菩提)悟りの日」。釈迦牟尼(シュダールタ・ゴータマ)が永年にわたる黙想、努力のすえ菩提樹の下で悟りを開いた日。後に 彼は、覚者の 意味をなす仏陀と呼ばれた。これが仏教の始まりである。
  シュダールタ(悉達多)は、皇太子として生まれた。ふつうの人間なら誰しもが欲しがる富強であった。しかし、皇子さまは、自己の内部に葛藤がおありであっ た。彼は、「人生の苦しみは、いかにして取り除くことができるか」を知りたかった。人間は全て、病、老、死などの苦に面したり、愛別離苦や憎い人と会わな ければならない怨憎会苦、求めても得られない求不得苦などがある。
 シュダールタは、苦の質について考えた末「苦の根本は、無知にある」との結論に達した。この無知は「自己本位、愚鈍、どん欲」などいろいろな 形で現れる。若きシュダールタには、様々な誘惑があった。例えば、彼が黙想にふけっていた時、美しい3人姉妹が彼に近づき、おどり、父親の御殿に戻って人 生を楽しむよう求め迫った。悪魔が現れ、彼の人生を脅かした、恐れを避けることも誘惑であった。多くの誘惑があった。シュダールタは、そのひとつひとつを 抑制した。しかし、ひとつの誘惑を抑えると、また、別の誘惑が現れた。抑えようが無くなってしまった。次から次へと誘惑の連続であった。シュダールタは、 それは「どうしてだろうか」と考えた。それらの誘惑は、外から来るのではなく、彼自身の内部にあることに気づいた。全ての誘惑の根源が彼自身であることを 実感したとき、善と悪と2つの対立する力を超越した。この偉大な発見が彼の「悟り」であった。
 12月8日の朝、夜明けの明星が輝いていた。シュダールタは、苦の根本は彼自身にあること、自らが苦の病根であることを知った。これこそが偉 大な悟りであった。彼が全ての誘惑の基であるゆえ、彼こそ、これらの誘惑に勝たねばならない。彼は人生そのものの真実を発見した。これが仏教である。

クボセ・ギョウメイ 「The Center Within」 による

Church's opposition to smoking should have been credited. Education is the best way to reduce the cost of ignorance. . .

Comments and suggestions may be addressed to: ymshimazu@aol.com

This page has been visited times since 1/10/01.
Editor:ハ Netscape 3.02