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SOURCE:仏教 (in English)が確立した心理哲学は現在心理学に継続されている。
人がどう感じるか、その人間が平和を獲得するにはどうすればいのかをインド仏教は追い求めたが、残念ながら、その追求は中国で
も日本でも継続できなかった。仏教が心理哲学としての発展をしなくなった。
このインドの仏教が求めていた心理哲学の復活は、欧州の論理主義的な心理学を待つことになる。論理的な思考は、残念ながらアーリ
ア人が得意なのかもしれない。インド人も欧州人もアーリア人の末裔である。
1.欧米の心理学史
欧州の心理哲学は、デカルトの物心二元論、カントの認識論、ヘーゲルの観念論と発展して、16世紀後半、イギリスでF.ベーコンによ
る経験主義哲学の影響を受け、J.ロックは経験心理学を提唱した。そして、ロックの考えを修正するかたちで、D.ヒューム、J.ミル、
H.スペンサーらにより連合心理学が確立する。
生理学の発展として、F.ガルやC.ベルやP.フルーランらによる大脳生理学や解剖学、J.ミューラーによる特殊神経エネルギー説など
が出て、それに基づいた実験心理学を1879年ヴントが確立する。ヴントは心理現象を実験的に捉えるために、意識を要素に分解し、操
作し(内観させ)、分析するという方法をとったことから、その心理学には、意識心理学、内観心理学、要素心理学、構成主義心理学
など様々な呼称がついた。
ヴントとその弟子のE.ティチナーによる構成主義心理学に反論する立場の心理学がJ.デューイやJ.R.エンジェルらによる、いわゆる
シカゴ学派の機能主義心理学である。その後、シカゴ学派の一人エンジェルの教え子、J.B.ワトソンは、行動主義を提唱した。
別の方面から来た精神分析学は、神経科医S.フロイトによって1910年に提唱された。精神疾患の疾病原因から探索的に人間の心を理論
化したものだった。
精神分析学の特徴は、無意識概念を体系的に理論化したこと、発達論的立場を導入したこと、精神現象を決定論的、機械論的に捉えた
こと、性的エネルギーが人間の心の原動力になっていると考えたことなどが挙げられる。A.アドラーやC.G.ユングは、無意識概念で
フロイトと意気投合し、共に研究を進めますが後に離反し、それぞれ独自の理論を構築していった。
1960年代後半、それまでの知覚・感覚心理学に代わり認知心理学が台頭してきたり、行動主義が退潮し、トールマンらの認知モデ
ルから見た行動科学が評価されるようになったりと、いわゆる認知革命が起こった。
1960年代から70年代にかけてのアメリカで、主に臨床心理学分野において隆盛を迎えた心理学が人間性心理学である。現在では、
A.H.マズローがその租であると広く認識されている。
2.仏教の影響
仏教心理哲学が影響を与えたのは、ヴントの構成主義心理学とフロイトの精神分析学である。精神分析学の特徴は、無意識概念を体系
的に理論化したとあるが、その方法は禅のような内観法しかないはずである。
事実、1939年に、ユングが禅の重要性を認識し、鈴木大拙の『禅仏教入門』の序文において次のように述べている。「これは『
悟りの内容』について多くをわれわれに教えてくれる。悟りの生じることは自我という形で限定された意識による、非自我としての自
己へのブレイクスルーとして解釈され、また公式化されると。
無意識を最初に理論化したのは、仏教の阿頼耶識であり、それを元に唯識という哲学ができたのである。仏教思想史2で記述したよう
に、世親が世界的な第一提唱者の位置になければならないはずである。しかし、その地位をユングが取っているだけである。
そして、今、人間性心理学から一歩前進した内観で見る仏教的な心理学が欧米で急速に確立してきた。それが、トランスパーソナル心
理学である。仏教哲学の発展が、再度、欧米で復活したような印象を受けている。しかし、あまりにも宗教的過ぎるという批判がある
が、超越性の理論などは現時点の密教理論を越える理論になる可能性を秘めている。
しかし、それにしても日本仏教は仏教哲学発展と言う意味では死んでいるし、寺に若者がいない現実からも将来的には、日本の仏教は
死ぬのではないかと見ている。
3.トランスパーソナル心理学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く
第四の心理学。人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものか
に統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。
特徴として、それは(1)意識的な状態、(2)至高または究極の潜在性、(3)自我または個人的な自己を超える点、(4)超越性(トランセン
ダント)、(5)スピリチュアルであること。
アメリカの思想家・ケン・ウィルバーはトランスパーソナル運動を推進し、執筆活動の初期よりトランスパーソナル運動が内包してい
た諸々の構造的な問題を認識し数々の著作をとおして、その克服のための提言をくりかえしている。
しかし、トランスパーソナル心理学への批判は、大きい。再現性に乏しい上にスピリチュアリティーも扱うため宗教に近い部分もあり、
そのため宗教そのものであるとの批判がある。ユング心理学のように疑似科学であるとの批判に対し、十分な説明がなされていない
という意見が批判者では大勢である。
再現可能性、実験再現性、再観測可能性や、臨床試験を中心に据えた研究発表が現時点では非常に少く、反駁不可能な領域に関しても
言及しようとする傾向が強いことが、批判される一因であり、現状では科学として多数派の人たちが取り扱える分野とは言い難いよう
だ。
しかし、人間が人間を越え神になる可能性をインド密教理論を取り込んで、かつその理論を精緻化していると見ている。果たして、そ
れが科学かと問われると疑問符がつくでしょうが、期待したい。
「五濁悪世」(ごじょくあく せ)とは、劫濁(こうじょく)・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁(みょうじょく) のことで五つの濁りにみちた悪い世の中のことです。劫濁とは、時代の 濁りです。戦争、疫病、飢饉、天災などが増大するということ、 まさにいま、テロの恐怖や地球温暖化など、世界規模で不安をかかえています。見濁と は、思想の濁りで、よこしまな思想、かたよった見方のことです。 私たちはものの見方、考え方が欧米寄りになっています。医療にしても西洋医学に傾倒しすぎて、 人間の体を機械の部品のように見てはいないでしょうか。また、自己中心的な人が増えています。道ばたに座り込む、電車の中でお化粧をする、飲食する、 携帯電話やメールをする、中高年の女性の団体行動、飛行機内で酔って暴れる中年男性、 いったいどうなっているのでしょうか。煩悩濁とは煩悩が増長すること で、貪り、怒り、愚かさなど煩悩が燃えさかり、 悪徳がはびこり、人間がそのためにますますあさましくなることです。衆生濁とは、 衆生の資質が低下することで、人間が悪くなり、 人間性が堕落することによって社会全体が乱れることです。命濁とは衆 生の寿命が短くなることで、煩悩や邪見のためにいのちを害(そこな)い、若死にすることです。 インスタント食品を食べ続けたり、タバコをすったり、不規則な生活を続けていると、栄養のバランスが崩れて、 長生きできないでしょう。
「五濁増(ぞう)のしるしにはこの世の道俗(どうぞく)ことごとく 外儀(げぎ)は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり」と親鸞聖人は嘆かれました。 この世は乱れ僧侶も門徒も外見は仏教のかたちをしているが、 中身は仏教にそむいているというご指摘であります。 浄土真宗でありながら、迷信にふりまわされている門徒さんを 指をくわえてみている私自身がはじいることであります。
SOURCE: http://www.geocities.jp/syakuriko/28wa.html
Buddhists shall kick unholy habit. Let us help Buddhist leaders fight the tobacco habit to become role models for unenlightened people. "Buddhist leaders are key people in society and are well respected. We need them to educate people not to smoke," said Seng Somony (2002), deputy director of the National Buddhist Institute in Phnom Penh. We have to get Buddhist leaders to quit smoking." Buddhist tenets forbid smoking cigarettes as well as using drugs, drinking alcohol, violence, exploiting other human beings. Education is the best way to reduce the cost of ignorance. . .「知恵」と「智慧」 |
仏は、個人的な悟りを得たいと求める人のためには四諦の 法門を説いて、生・老・病・死をはじめとするさまざまな人生苦から救い、現象へのとらわれから解脱した境地を極めさせました。また人生のいろいろな出来事 を縁として自ら悟りを開こうと努めるものには十二因縁の法門を説き、もっと大きな志を持ち人を救い世を救うことにより仏の境涯に達しようと する者には六波羅蜜の法門を説き、あらゆる物事を総合的に明らかに見通す大きな智恵を得、悟りに至る手段を明らかにされました。
四諦の
教えは、初転法輪から入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理。四
苦八苦(しくはっく)を滅する方法を説いたものです。
これらの四 諦の法門は、非常に重要な教えであり「法華経・譬諭品第三」に次のように説かれております。「もし人 小智(しょうち)にして深く愛欲に著(ぢゃく)せる これらを為(もっ)ての故(ゆえ)に苦諦(くたい)を 説きたもう 衆生心に喜んで未曾有(みぞう)なることを 得 仏の説きたもう苦諦は真実にして異なることなし もし衆生あって苦の本(も と)を知らず 深く苦の因(いん)に 著(ぢゃく)して 暫(しばら)くも捨(す)つること能(あた)わ ざる これらを為ての故に 方便(ほうべん)して道を説 きたもう 苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり もし貪欲滅(めっ)す れば 依止(えし)する所なし 諸苦(しょく)を滅尽(めつじん)するを 第三の諦と名づく 滅諦(めったい)の為の故に 道を修行す」とあります。仏教修行を志される方々は、よくこの意味をよく理 解していかなければならないと思っています。
これらの四
諦の法門は、非常に重要な教えであり「法華経・譬諭品第三」に次のように説かれております。「もし人 小智(しょうち)にして深く愛欲に著(ぢゃく)せる これらを為(もっ)ての故(ゆえ)に苦諦(くたい)を
説きたもう 衆生心に喜んで未曾有(みぞう)なることを
得 仏の説きたもう苦諦は真実にして異なることなし もし衆生あって苦の本(も
と)を知らず 深く苦の因(いん)に
著(ぢゃく)して 暫(しばら)くも捨(す)つること能(あた)わ
ざる これらを為ての故に 方便(ほうべん)して道を説
きたもう 苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり もし貪欲滅(めっ)す
れば 依止(えし)する所なし 諸苦(しょく)を滅尽(めつじん)するを 第三の諦と名づく 滅諦(めったい)の為の故に 道を修行す」とあります。仏教修行を志される方々は、よくこの意味をよく理
解していかなければならないと思っています。
SOURCE:
http://66.102.7.104/search?q=cache:hzD9i-TnmokJ:homepage2.nifty.com/shusse-kannon/budda/budda4.htm+%E5%9B%9B%E8%AB%A6&hl=ja
「バザー終わって、、、」
皆様はアメリカで佛教伝道にたずさわっている者をどう呼ばれているか御存じでしょうか?「開教師」でしょうか、それとも「開教使」でしょうか?
日本では「お坊さん」、「和尚さん」とか「御院家さん」とも呼ばれていますが、アメリカでは、西本願寺、東本願寺は「開教使」で、それ以外の佛教宗派は、
「開教師」と書かれています。ただ、宗派によって、「師」と「使」の違いがあるところが微妙なのであります。
1899年9月1日、サンフランシスコに上陸された米国佛教団 (Buddhist
Church of America)
開教使第1号は?田宗恵先生であり、その間、88年間、本派本願寺(西本願寺)の僧侶は、皆、開教使と呼ばれてきました。「広辞苑」辞書を見てみても、
「開教使」はないのでありますが、日系新聞の記事には必ず「開教使」と記載されてあり、その他の宗派の場合は「開教師」と書き分けてありますのは、アメリ
カの日系人社会では長年に渡って使用されている言葉なのです。
では、「開教師」と「開教使」はどう違うのでしょうか?
野本一平氏の「アメリカ念仏風土記」(大乗:昭和61年9月号)には次の記事が載せてありました。「在米日系人の中にも最近こんな質問を開教使にしてきた
人がいたそうである。「うちらの先生は(アメリカでは開教使を先生とも呼び、日本語学校教師も兼ねた伝統による)開教使で、禅宗では、開教師と書いている
が、師の方が使より偉そうにみえるが、どんなもんじゃろう」と。それに対し、開教使さんはこう答えたという。「師は先生で、
使はお使いじゃ。お使いがつまらんということはない。わしらは阿弥蛇さまのお使いじゃ、エラそうなことを人に教える先生じゃない。ホトケさまのおみのり
を、おとりつぎする大切なお使いじゃよ。いわば阿弥蛇さまのメッセンジャーということになる。親鸞聖人も御同行御同朋と申されておりますぞ。開教使で、何
の不足も悪いところもありません」と。」
バザーが終わって、秋晩の頃、皆様が開教使に見えてなりません。
合掌 安孫子 洋
「
花のみ子誕生 」
、、、、、、
てんじょうてんげゆいが
どくそん
「 天上天下唯我独尊
三界は皆苦なり 我当に之を安ずべし」と宣言されました。初めてお聞きになる方は、いくらお釈迦様が偉くても、生まれたばかりのベビーにそんなこと
が。。。と疑問するでしょう。それは当然のことですけど、宗教、特に、佛教の経典は文学作
品を読むように、象徴的な表現の中に心理が織り込まれています。だから、文学作品を読むような気持ちでお経を読まないと意味がわからないどころか、誤解も
してしまいます。ありのままに言いますと、やはり、オギャー、オギャーと泣かれて、お生まれなされたのですが、お釈迦様の誕生は、ただお釈迦様一人の誕生
ではなくて、その中には佛教の思想も誕生し、宇宙の生きる者すべてが安心する教えの誕生であります。まず、東西南北の四方ですが、これは、宇宙のいたると
ころで佛の教えが広まるということです。それも、今を生きる私の身・口・意によって広まっていくのです。七歩ですが、これは、無限の数を表すと同時に、佛
に成るものは六度(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人の世界)に留まらず、声聞界、縁覚界、菩薩界、そして佛界に生きるを現しています。又、古代のイ
ンドでは、七は満数を表し、いっぱいとか満足することを意味します。ですから、右手で、天を指し、左手で地を指しておられるのは、これから宇宙のいたると
ころに無上の佛の教えが展開していくことを象徴しています。しかも、何千年も前のことでなく、今、なお、お釈迦様はご修行の最中と受け取りたいのです。こ
ういうふうに読み取って、花御堂を見て頂きますと、佛の教えがもっと自分に近づいてくるのでしす。どうぞ、お釈迦様のお誕生「花まつり」を心から慶び、お
念佛しましょう。
合掌 安孫子 洋
「サトリの先にあるもの」
近代宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)は、原始的宗教に一般に見られる矛盾=神と人間の関係が対等であるという立場、もしくは、人間が神を 使役するという、人間が神の上位になる関係を避けることで成り立ってきたといえます。例えば、日本の古来の「御利益」の概念は、人間が、一心不乱に祈った り、水行をしたり、生け贄を捧げたりして、なんらかの犠牲を神に払えば、神がお返しに御利益をくれるという概念です。これは、人間の行為に神が見返りを提 供しなければならないという、人間と神を対等もしくは、人間優位の関係に置くものであり、近代宗教とはなり得ないものです。なぜなら、そのような論理は、 人間の側の行為、論理が、神の行為、そして究極的には神そのものを定義するということであり、これは、その論理で主張される存在が、「神」である以上、必 ず破綻するからです。まさにゲーテル的な論理破綻です。
イエスの主張は、神と人間が契約するなどとはおこがましいという主張といえましょう。全ては神の側が決めるのであり、人間の側が何をしてもおこがま しいということです。また、「神は既に我々と共にある」、もしくは、「神は無条件に人間を愛している」という主張です。だからこそ、逆に、例えユダヤ教律 法主義で規定された罪人であっても、神は許す可能性があるという論理となります。全ては神の側が自由に決めるのであり、人間と神が契約という立場で人間が 神の行動を制約するような、対等もしくは、人間優位な関係なのではないという主張です。勿論、この「神は既に我々と共にある」という主張を受け入れれば、 この論理に矛盾はありません。紀元前のユダヤ教を含む多くの、「御利益主義」宗教が抱える本質的な問題を解決する画期的な主張であったわけです。
一方、インドにおける、仏陀以前のバラモン教の伝統は、ユダヤ教のサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の全てを合わせたような伝統でした。やは り、ここでも、我々の永遠かつ固有なるアートマンは、宇宙の永遠かつ普遍なブラフマンと合一することが「解脱」であり、その為に、マントラも唱えれば苦行 もすべしという立場です。これも、苦行なりバラモンへの布施なりが、カルマの解消なり、なんらかの見返りをくれるという因果律における「御利益主義」とい えます。仏陀は、これを、イエスとは異なる論理で否定しました。仏陀の論理は、「縁起」です。宇宙の全て、「神」も含めて、独立して永遠に存在できるもの は何もないという哲学です。因果律という法則さえもが、アプリオリなものではなく、縁起によるものであるという主張です。ブラフマンも空、アートマンも 空、カルマも空です。十二支縁起説を認めるならば、この論理にも矛盾はありません。
重要なのは、この「矛盾がない」という点です。これは表面的な論理で矛盾がないということではなく、徹底的に吟味して、矛盾がみつからないというこ とです。(勿論、無矛盾を証明できるという意味ではないです。)今でも沢山の脱洗脳依頼を受けますが、それらのカルトを見て分るのは、そういったカルトの 教義が、我々には容易に認識できる本質的な矛盾を内包しているということです。勿論、教祖達は自分の教義には矛盾はないといいますが、実際には、イエスや 仏陀が退けた矛盾で固められているものがカルトです。基本的には、イエスや仏陀が退けた「人間の何らかの『正しい』営みが、その人に返ってくるという『御 利益主義』」がカルトの典型です。だからこそ、ハマる人が多いのだと思うし、また、巨額のお布施を受けて、これらのカルト教団が成り立っているのだと思い ますが。
キリスト教なり仏教なりの伝統宗教が、本質的なレベルで、意味を持っているのは、このような原始的宗教の論理矛盾を始祖が解決したところから始まっ ているという点です。勿論、私が話してきた多くの、伝統宗派の教会や寺院の神父、牧師、僧侶の主張には、いろいろな理由で矛盾だらけなのは否めません。現 実には、現在の教会や寺院が、何らかの理由でイエスや仏陀が退けたものになってしまっているということでしょう。 組織や人が人を支配する必要性が生ま れ、教団化した宗教は、必ず、人が人を支配する、人が神を使役する論理を教義に導入しますから、その瞬間に、ゲーテルの定理が発効するわけです。
まさに、人間の論理的体系で神の存在の証明はできないという主張は、ゲーテルの定理を待つまでもなく、2500年、もしくは、2000年前に既に仏 陀やイエス自身により、しっかりと主張されているのです。これにより成立したのが、仏教であり、キリスト教なのです。彼らは、イエスであれば、神の無条件 の愛を主張し、その主張による、神とのユダヤ教以来の矛盾による断絶からの和解であり、また、仏陀ならば、人間の思考活動が想定する「神」の概念を超越す る視点の可能性を主張することにより、まったく新しい知見の水平線を見せるという具体的な方策を持っての主張をしたわけです。
ところで、ゲーテルの不完全性定理は、一つの系の中での無矛盾関係の証明不能性です。ここで、イエスは、「神の存在の有無」に関する単調論理系に、 「既に神は支配している」という、非単調な論理を導入して、無矛盾を主張したのであり、また、仏陀は、「絶対的存在の有無」に関する単調論理系に、有でも ない、無でもないという「空」の概念を導入して、非単調に無矛盾を主張したのであり、彼らの論理体系は、それぞれ、ゲーテル的数理哲学の論理を逸脱、もし くは、超越して、「成り立って」いるわけです。勿論、知の体系という系のなかで、これは、そもそもルール違反ですが、信仰とはそういうものであるというこ とでしょう。もちろん、論理的には、彼らの主張の無矛盾証明になっていないことはいうまでもありません。ただし、イエスや仏陀以前のユダヤ教はバラモン教 が、論理体系中に明らかに矛盾を孕んでいたことに対して、彼らの主張には矛盾が存在しないことは、直感的に我々は認識することができます。
ところでこれら、イエスや仏陀の論理が、無矛盾だからこその空しさもあります。それは、彼らの論理が、証明論理の系の中で無矛盾を維持しているとい うことは、彼らの主張は、論理的には、我々になんの御利益(救い)ももたらさないからです。だからこそ、無限後退とならずに、無矛盾な主張を維持できるわ けです。逆に、御利益を主張できる宗教は、それは、必ずイエスや仏陀が退けた矛盾するカルト的宗教ということになります。
仏陀でいえば、まさに「空」の空しさです。「縁起」によれば、苦しみも空ですが、喜びも空です。勿論自我も空であり、全ての宇宙は空ですから、まさ に空しさを内包した考え方です。後に中観思想とよばれる大乗仏教的見方が、仮観を対応させて、中観を生み出したことは、前にも書きましたが、空観の本質的 な空しさは変わりません。ただし、仏陀の主張である「縁起」を受容するならば、全ての苦しみから解放されることは間違いありません。やはり、徹底的な救い であるとも言えます。
「絶対的」というのは、カントのいうアプリオリという意味です。もしくは、老子のいう、「それだけであるもの」という意味です。数学の公理のよう
に、他の何者にも依らず、未来永劫、それだけで存在し得るということです。ですから、一般的な用語でいう相対的に対する絶対的という意味と少し違うかも知
れません。当然、相対的とは、それ以外の存在すべてということになります。 そこから先は、自分の信念、もしくは、宗教心の選択です。(能動的な選択かど
うかは別にして。)例えば、キリスト教の神は「絶対的」な存在です。密教でも基本は大日如来という「絶対的」な存在を前提としている宗派が多いです。だか
ら、密教は仏教というよりもヒンズー教(バラモン教)に近いといわれるのです。勿論、仏教という本来の枠組みでは、(例え密教宗派でも)、絶対的な存在は
ないと考えます。お釈迦様が菩提樹の下で悟ったとされる十二支縁起は、正に、全てのものは、縁起(因縁)によるもので、それだけであるものは何もないとい
う哲学です。ですから、神が存在したとしても、縁起によるものであり、絶対的な存在ではあり得ないと考えられています。当然、生命も空であり、縁起による
ものであるので、この意味では絶対的な存在ではないです。
ただ、そこに戒という考え方が出てきます。自分に対する戒めです。「私は、何が何でも決して人を殺さない」という自分に対する戒めです。何が何でもは、
「絶対に」という普通の日本語で言うことが多いでしょう。だから、人の価値は私にとっては絶対であって、決して相対化しないという戒めです。これが、「洗
脳原論」の「世の中には相対化してはいけないものがある」という意味です。仏教では戒めであって、やっては反則であるという契約(神との契約)を破るとい
う意味とは違うわけです。キリスト教世界では、人は殺してはいけないという絶対の神との契約なわけです。(「神と契約した人以外は」という限定がついてい
る解釈が戦争を肯定していることは「洗脳護身術」で書きましたが。)
サトリの先にあるものの大前提が、まさにこの空観、仮観、中観が当たり前のようにできた状態(円融三諦)であるわけです。
ご意見、ご反論をお待ちしています。
https://www.youtube.com/watch?v=GC0gwROEf0E&feature=related
https://www.youtube.com/watch?v=SFzwFEe6-Wk&feature=related
https://www.youtube.com/watch?v=qgWRTfhtbEM&feature=related
August 2004
毎年夏が来ますと、、、、、
合掌
安孫子 洋
http://www.beliefnet.com/story/146/story_14636_1.html
JUNE 2004
「知恵」と「智慧」
最近のテレビや新聞でのレポートや、お寺で実際に受ける相談などを総合してみますと、今の世の中の家庭をむしばむ悩みとして、生活苦、非行、それ
に人間関係の三つがあげられます。これらの問題は、それぞれのケースによって違いは外面的にありますが、その原因を聞いてみますと、一つの大きな根から生
まれているように思えます。その原因を考察し根本的な解決を求めなければなりません。
たとえば第一の生活苦の問題ですが、これは冷静に前後のことを考え、
いわゆる「入るを計って出ずるを制す」の心がけがあれば、起るはずがないと思われます。今日では、いくら不景気続きだからといって、その日の食をいただけ
ないことはまずないでしょう。セービング等から引き出す必要はないでしょうが、なぜ借金をするのでしょう。ズバリ言って、それは、佛教で教えている「貧」
と「痴」が心を惑わすからです。「とん」とは、満足することをしらず「もっと欲しい」、「あれも欲しい」という貧り(むさぼり)心です。「痴」とは、前後
の考えもなく、一時の感情か、はずみ心のままに行動する痴(おろかさ)のことであります。ある欲求が起りますと矢も楯もたまらず、収入額の当てもない場合
も、何とかして欲求に応じてしまいます。この「貧」と「痴」は、あとさきを深く考える配慮と、忍耐して自分の態度の欲求を抑える自制心、つまり、人間の理
性、知恵でもって防ぐことができる迷いであります。
この頃の一般家庭は、生活があまりにも楽になり過ぎて、経済に対する考えがとても甘くなっているように思います。「出ずるを制す」を先に立てるべきでは
ないかと自分にも問いかけています。もちろん、そういったかまえは、金額の問題だけではなく、生活意識の全体を健全な方向に進行するのです。お寺の会計の
やりくりも、毎年、困難になっており、こういった知恵が必要になっております。
随分と増えました犯罪や非行と、家庭内の問題になりますと、たんなる理性や生活の知恵のみでは出来ない原因があることが解ります。と言いますのは、家庭
内の人間関係は、それが親密でありますだけに、かえって心理の深さにからまりや、しこりを生じやすいからであります。家庭外の人達との交際には、時間的に
も、空間的にも、心理的にもある程度の距離があります。たとえば、仕事の上司がいくら憎らしくても、大声をあげたり、一切口をきかないと言うことはできま
せん。そこに「忍耐」と言う心がはたらくからであります。それに対して、夫婦や親子の間柄は、血のつながりがあり、物質的な関係は濃く、心のしがらみは深
く、しかも毎日同じ家で暮らしています。これほど親密な間柄は外にはありませんが、逆に何かのくいちがいが起きますと、それがどうにもならぬ疑いや、こだ
わりになりやすいのです。そして俗にいわれます「可愛さ余って憎さ百倍」と言う事にもなりかねません。そういう事にならない為には、「人間の知恵」のみで
はなく、「佛の智慧」が必要なのです。「智慧」とはどんなものかと言いますと、それは「目に見える現実の世界はもとより、目に見えない心の世界まで、その
真実を見通す心のはたらき」です。それを三つに分けて教えて下さっていますのが「3法印」と言います。それは、「すべてのものは変化する」、第二に「すべ
てのものは相依相関、持ちつ持たれつして存在している」、第三に「すべてのものがバランスよく存在している時に安らぎがある」という真理のはたらきをハッ
キリすることです。そんなことはあたりまえとよく聞きますが、知識のみの解釈なので、知恵にもなっておりませんし、智慧にはほど遠いようです。むずかしい
ことを言っているのではありません。春の次には、夏が来て、秋が来て、冬が来る。景気が良いあとには不景気が来るという変化がある事をみ通して、それに備
え、忍耐して行く。こうすることが佛様の智慧に照らされた生活態度であります。
では、こうした見えない世界、微妙な心の世界を健全に保つにはどうしたら良いかと言いますと、それは毎日の生活の
中に佛法に聞き、学び、それを実践して行くのが第一の道だと確信します。最もすばらしいことは、解りそうなことも解らなく、だだ貧・慎・痴に生きる者を案
じて下さる智慧光の大慈悲です。
合掌
安孫子 洋
APRIL 2004 てんじょうて
んげゆいが
いそん
「
天上天下唯我為尊 」
、、、
しかし問題といわれていますのは、「唯だ我れ独り尊し」と告げられたという「独」であります。普通だと、高慢と思う方もおられるでしょう。無我を教える
佛教に反していると聞くこともありましょう。しかし、それらの考えをふまえた上で、お釈迦様の誕生とその意義を明らかにし、そして正しく私達が受け取るこ
とができるように、「長阿含」という古いお経に示されてあります。そこには、「
天上天下唯我為尊 、かならず衆生の生死を度せん」と。「唯我為尊
」と教えることによって、「独」という言葉にまつわる高慢なこころや独善性がないことを教えていると受け止められるのです。お釈迦様は覚者となり、私達の
苦悩を正しく見つめられ、あらゆる苦しみ悩める生きとし生きるものを必ず済度しなければならないという責任の自覚の宣言と言うべき言葉であります。さら
に、「ブッダチャーリター」の経典には、「佛蛇は7歩あるいて次のようにいう。わたしが生まれたのは悟りを開くため、世間を利益するためである」とありま
すのは、お釈迦様の自己への責任が教えられているのです。
合掌、 安孫子 洋
DECEMBER 2003
「喫煙の恐ろしさ」シリーズ 5.副流煙、受動喫煙の恐ろしさ
副流煙の方が主流煙より毒性ははるかに強い。タール、ニコチンが数倍、ベンツピレンが3.7
予防がん研究所長、平山 雄 |
OCTOBER 2003
「 法事 」
、、、
法事はつかの間の人生の触れあいを、よき御縁として、先立った人を師として導かれて佛様のみ教えを頂く礼拝の進みであります。亡くなった人をしのぶこと
を「訪う」(とぶらう)といい、たずねて行くことを意味します。生きている人を訪ねるには、どこにでも出掛けて行けますが、亡くなった人を訪うには、二通
りあります。一つはお墓参りがありますが、先立った方の肉体が形を変えて土か灰となって安置されていますが、その方のこころはそこにはおられないでしょ
う。こころは佛様のお浄土におられ、衆生のためにはたらいておられるのであります。ですから、かんじんのこころを訪ねていこうと願うならば、佛様のみ教え
の中に訪ねなくてはなりません。従って、法事には、二つの意義があります。一つには、ありし日の故人の面影をしのび、感謝をする世俗的な面、二つには、故
人の御命日を御縁として、自分自身が礼拝し、佛法に触れ、み教えを聞くという宗教上の意義があります。故人のこころを安じるには、自分自身が信心の生活を
よろこぶことが肝要です。
中国の古語に「恵?、春秋をしらず」というのがあります。蝉は夏生まれて、夏鳴いて、そして夏死んでいく虫ですから、夏の前に春があったことも、夏のあ
とに秋が来ることも知りません。前と後に春と秋を知らないということは、今が夏だということさえも知らないのです。人生も同じようで、生まれる前の世界
も、死んでいく世界も知らないにもかかわらず、今も人生を知ったように平気でいるのが現実の私達ではないでしょうか。
合掌、 安孫子 洋
AUGUST 2003
Smoking from the Buddhist perspective does not pose a
moral
question
other than being an unwise and unhealthy habit. But the
well-established
fact that second-hand smoke can harm or even kill other people should
now
get a debate started among members of the Buddhist community. It
doesn't
take a religious or scholarly debate to figure out that Buddhist monks,
who are supposed to be students of Buddha's teachings and spiritual
guides
of Buddhist lay people, must show compassion to fellow human beings and
indeed all living things by refraining from smoking. Simply quitting
smoking
will bring tremendous health benefits to former smokers. Obviously no
one
who takes Buddha's teachings seriously can deny that the essence of
Buddhism
lies in one's ability to detach oneself from fleeting, worldly
pleasures,
which tend to distract from one's quest for inner peace, self-awareness
and enlightenment. Kicking the habit may well bring many monks closer
to
achieving these lofty ideals, not to mention better health and sounder
minds to propagate Buddhism as well as setting standards of behavior
for
their lay followers. |
JUNE 2003
「 一隅を照らす
」
、、、
京都市東北にそびえ、親鸞聖人が9才から29才まで修行に専念された天台佛教の根本道場の比叡山を開創された伝教大師最澄(さいちょう)は大事な教えを
数多く残されていますが、その随一はやはり次の一句でありましょう。
「径寸(けいすん)十枚、是れ国宝に非ず、一隅(いちぐう)を照らす此れ即ち国宝なり。」 価値のある宝玉が十個あっても、これは国の宝とはいえない。
道心をもって世間の一隅を照らす人こそが国の宝なのである、と語っておられるのです。伝教大師のお言葉どおり、光明こそが国全体を照らし、世界の未来を開
く光明となるものと思われます。特に暗いこの頃、最も大切にせねばならない「光明」を思い出すのです。
だれしも求めるものは、苦しみの闇をはらす光なのです。諸苦の根本であり無明(むみょう)を照らすのが光明なのです。真宗では六字名号の「南無阿弥蛇
佛」と並んで九字名号の「南無不可思議光如来」と十字名号の「帰命尽十方無げ光如来」を阿弥蛇佛のお呼び声としてお内陣にお奉りします。九字にも十字名号
にも光の字が入っていますのは光明がいかに大切なものかは誰にもおわかりの事でありましょう。
では、「 一隅を照らす 」というのは具体的にどんなことでしょうか。
第一は、あなたがいる場所において、あなたでなければならない、といった意味での存在感を持つことです。いつ、どこででも、「あの人がおれば」といった
信頼感をいだくような存在となることです。
第二は、職業や地位に関係なく、何か一つ内面的な芯を持つことです。よって「信心」、「真心」とか、「信念」とも呼ばれるものを内側に持っていることで
す。つまり、あなたの本質の光によって人は照らし出され、その照らし出された人は必ず他の人を照らすのです。
第三は、一番大事なことですが、善意をもって人の為に尽くすことです。どんな小さなことでも、時には厳しい言葉を使うかもしれませんが、ひとを包みこむ
あたたかい心でご縁ある方々に接し、困っている人があれば親切の手をさしのべていきたいものです。
ある朝、目連尊者が祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の庭に消え残った灯を消しまわっておられますと、一つだけ、どうしても消えない火がありました。それは
貧しい一老女が身を粉にして用意した油でささげた灯だったのです。お釈迦様は、「真心のこもったその灯はどうしたって消えはしませんよ」とおしゃいまし
た。近頃は、享楽や金と物が世界を動かすのだという風潮が強いようです。人間がみな持っているはずの本質の光を消しているのではないでしょうか。本質の光
がささなければ、どんな華やかな生活をするにも、内面は常に暗く孤独です。凶悪な犯罪が多いのも、元をただせは、ほんとうの光を投げかけていないからで
す。
善意の灯は消えません。他のために点じた一隅を照らす灯は、いつまでも消えなく光り続けます。
合掌、 安孫子 洋
|
May 2003
「 平和主義者
」
、、、
佛教は主義と言うものではありません。佛教はお釈迦様によって発見されたものでありましても、お釈迦様のつくり出したものではありません。佛法と言う真
理にめざめたものであります。お釈迦様の存在にかかわらず法はいつでも、どこでも私にめざめさせようとはたらきかけて下さっているのです。お釈迦様の正覚
によって佛法が明らかになったのであり、法にまざめた人を佛人と言い、そこには、主義も主張もありません。相対的なものの考えによって、よし悪いを論じ、
主義主張で争い傷つけあい、平和の名のもとで人間同志が争い合うことは本当に悲しいことです。すべての対立を越え、主義主張を包んでいくところに佛法の精
神と特徴があるのです。又、佛教では、他宗教のように、自分の宗教は正しくて他の宗教は正しくないと主張しません。もし、そう攻撃しますと佛法は鉄砲で佛
法ではなくなるからです。
聖徳太子は、「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ、凡夫ならくのみ」と仰せられ、どんなに強くて立派な人と云われても、佛の眼から見ますれば、
やっぱり凡夫で、不完全は、おろかな人間と言うよりは外ありません。お釈迦様の精神、佛法の心、即ち、争いのない心を、見事に現して下さっているのが親鸞
聖人の、「念仏弘まれかし、世の中安穏なれ」との仰せであります。聖人のお心こそ、平和のこころです。
合掌
安孫子 洋
February 2003
「高きに登るは低きよりす」
、、、
佛教においては、道程と結果、プロセスとゴールをひとつとして考えます。「道」とは、もともとプロセス、道程を意味し、またゴール、結果として理解しま
す。たとえば、地獄、餓鬼、畜生、シュラ、人間、天上、の六種の迷いの世界を「六道」といいます。しかし、これらの世界は私たちの日々の生活のありよう
が、自分の未来の世界、地獄などの迷界を作りだしているところから、その結果を「道」と表現しているのです。
私達の日々の生活、その身、口、意の三業にかけて、その教えを生きていくこと、そのほかに佛教を生きるということはありません。しかもそれを三業にかけ
て実践するには、いかにすればそうなるのかという工夫と、その実践をどこまで努力して続けるかが肝要です。このことを大切にしていくなれば、必ず、その道
程、プロセスの中に、人生のゴールは確かに見えてくるのであります。
合掌
安孫子 洋
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JANUARY 2003
新年のごあいさつ
、、、
私達の毎日の生活に忘れてはならない教訓に「今日一日を大切にせよ」と言うのがあります。同じく、今日すべきことを明日に延ばさず実行せよとも言えま
しょう。一般的には、時間というものは、客観的にとらえられ、私がこの世に生まれる前より時間はあり、昨日より今日へ、今日から明日へと流れており、私は
その時間の流れの中に生まれ、生き、そして死んでいくものと考えています。私がいなくなってからでも時間はそれ自身として、私とは関係無く流れます。とこ
ろが佛教では、私を離れて時間はないと考えます。つまり、時間というものは、別にその本質があるわけでなく、ものの存在によって成立するものと考えます。
私がここに存在するので、私にとって時間が成り立つわけで、私の存在なくして、生まれる以前にも、いなくなった後にも、時間は存在しないと言うのです。佛
教において、時間をつねに「現在」の一点にとらえる理由がここにあるのです。又、以前に現在であった時間を過去と呼び、まだ現在でない時間を未来と言うの
は、いつも現在を基点として考えるわけです。
年末より新年の時の流れに際して考えることは、今日ただいまを空しくすごすことなく、心しく、日々時々に励まなければならなく、佛様のみ教えを聞こうと
志すものは、明日をまってはいけないのです。念佛者には、昨日は今日、明日も今日であるのです。
合掌
安孫子 洋
、、、当佛教会の「総永代経」について、もう一度考えさせて頂きます。
「永代経」の歴史はあまり明確でありませんが、文献には今から325年前、第14代門主寂如上人(1662年)の時に執行された記録があります。「永代
経」とは「永代読経」の略で、お経を読み、先亡者の追悼の思いを末代までつたえていきたい望みがこめられてあるお勧めです。又、勧めかたには、2種類あ
り、ひとつは、ある決まった先亡者のお一人に対するものと、先亡者全体を総括して開かれる「総永代経」法要があります。又、亡くした方に何かして上げた
い、何か御恩返しをしたいの追悼の思いから、お寺に特別の永代経懇志と呼ばれる寄付があり、その上納された御寄付は特別会計に保管されて、一般会計とは別
にして、お寺を存続させる為の基本財産にされます。本堂御内陣の修繕、法務に必要な佛具の購入の資金に使われております。
要は、「永代経」が勤まれます折から、皆様は、佛法が子々孫々、永代にわたって、限りなく世の救いの光となることを願って勤まる法要です。何より大切な
ことは、私共一人一人が、尚一層、み佛さまの永遠の命を頂いて、生きている喜び深めさせて頂くことと思います。妙好人の浅原佐市さんが、味わい深い言葉を
のこしておられますが、よくよくあじわってみて下さい。
”死にたけりゃ死ねよこの体、
われは死んでも、わしゃしなぬ、
生きて参る南無阿弥蛇佛。
死ぬが嫌いなら念佛申せ、
生きる念佛、南無阿弥蛇佛。
死ぬる事味おうてみましょう、
死ぬるじゃのうて生きる事、
南無阿弥蛇佛に生きる事、
南無阿弥蛇佛、南無阿弥蛇佛。
死ぬる事、はずしてもろうた私に、
南無阿弥蛇佛を、あててもろうた。
死ぬる寿命をもろうたがうれし、
いんま参る南無阿弥蛇佛。”
合掌
安孫子 洋
SEPTEMBER 2002
「教
開使」
皆さんは、私のように、アメリカで佛教伝道にたずさわっている者をどう呼ばれているか御存じでしょうか?「開教師」でしょうか「開教使」でしょう
か? 日本では「お坊さん」、「和尚さん」とか「御院家さん」とも呼ばれていますが、ここアメリカでは、本派本願寺(別名、西本願寺)と大谷派本願寺(別
名、東本願寺)は「開教使」で、それ以外の佛教宗派は、「開教師」と書かれています。ただ、宗派によって、「師」と「使」の違いがあるところが微妙なので
す。
1899年9月1日、サンフランシスコに上陸された米国佛教団開教使第1号は?田宗恵先生であり、その間、103年間、米国佛教団の僧侶は、皆、開教使
と呼ばれてきました。「広辞苑」辞書を見ても、「開教使」はないのですが、日系新聞の記事には、到来「師」と「使」が使い分けられています。野本一平先生
の「アメリカ念仏風土記」(大乗:昭和61年9月号)には次の記事が載せてありました。「在米日系人の中にも最近こんな質問を開教使にしてきた人がいたそ
うである。”うちらの先生は(アメリカでは
開教使を先生とも呼び、日本語学校教師も兼ねた伝統による開教使で、禅宗では、開教師と書いているが、師の方が使より偉そうにみえるが、どんなもんじゃろ
う”と。それに対して、開教使さんはこう答えたという。”師は先生で、使はお使いじゃ。お使いがつまらんということはない。わしらは阿弥蛇さまのお使い
じゃ。エラそうなことを人に教える先生じゃない。ホトケさまのおみのりを、おとりつぎする大切なお使いじゃよ。いわば阿弥蛇さまのメッセンジャーというこ
とになる。親鸞聖人も御同行御同朋と申されておりますぞ。開教使で何の不足も悪いところもありません。”と。
お盆・バザーの後かたずけがすみ、秋のお彼岸会(9月22日)を期待する折に、開教使と呼ばれる御縁が味わい深くなっております。
合掌
安孫子 洋
AUGUST 2002
「御臨末の御書」
「我が歳きはまりて、安養浄土に遣帰(げんき)すといふとも和歌の浦曲(うらわ)の片雄浪の、よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人いて喜ばば、二
人と思うべし。二人いて喜ばば、三人と思うべし。その一人は親鸞なり。
我なくも法は尽きまじ和歌の浦。あをくさ人のあらんかぎりは。」
読めば大体の意味が解り、報恩講の席で歌う「和歌の浦曲の片男浪の歌の句の基(もと)だなと気ずかれると思う。
「安養の浄土に遣帰す」とあるが「安養の浄土」とは極楽ともいい、阿弥蛇佛の浄土である。「遣帰」は「かえる」ということで、浄土にかえるということで
ある。
しかし、そのまま彼の土に止まるのでなく、又、この世界にもどり、如来大悲のみのりを弘めるため、世の人、一人一人によりそっていきたいとの、ふかいお
もいがこめられている。
特に、文の終わりに詠じられている和歌に注意したい。
この世界に人々の生きている限り、和歌浦の片雄浪がよせかけよせかけかえる如く、この世界にかえって来て、みのりを弘めて行こうという願いがこめられて
いる。
前門主さまの念願も同じであったとお察し申し上げる。
この和歌のこころは、誠に深遠にして雄大、宇宙にひろがって行くような思いがする。
瞑想や修行の目的を「煩悩破壊」とする宗教的立場をとる人たちがいることは知っています。神秘体験といわれる変性意識体験に、「煩悩破壊」という意 味合いで宗教的価値を与えようとする意図も理解できます。つまり、自分自身の心の穢れ、欲望、執着、苦、恐怖、また敵対や霊障などの原因が自己の煩悩であ り、これを滅却する、もしくは、「煩悩を破壊する」ことに、大きな意味があり、瞑想の神秘体験がこれをもたらすので、神秘体験には、宗教的な価値があると する主張でしょう。特に神秘体験は 圧倒的な個人的な超常体験であるため、何らかの意味付けをしたくなる気持ちも分かります。 私の答えは簡単です。どのような理由付けをしたとしても、神秘体験という出来事そのものは、単なる脳内現象であり、なんの意味も、宗教的価 値もないということです。別に催眠や薬物ではなく、正当な禅の瞑想をしたり、チベット密教の瞑想をしたり、何をしておきたとしても、神秘体験 そのものには、何の意味も価値もありません。また、「煩悩破壊」という概念も自己矛盾と考えます。「破壊したい」、「破壊する」という欲求、 行為そのものが、煩悩に囚われている顕われです。 たとえば、仏教は、煩悩を破壊することを目的としているのではなく、「もともと煩悩などというものはない」ということを悟れとしています。 禅者松原泰道老師の著書「道元」では、このことが以下のように述べられています。
達磨の禅法を伝えた中国禅第五祖の弘忍(ぐにん)の高弟である神秀 が、さとりの心境を
身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使惹塵埃
「身はさとりを宿す樹のごとく、心はもと清浄な鏡のごときもの、ゆえに常に汚れぬように払い吹いて、煩悩の塵や埃をとどめてはならぬ」として、煩悩 をことごとく滅する修行の大切さをうたいあげます。これが、煩悩破壊」のために瞑想、修行、神秘体験をすることに宗教的価値が あるという立場と同じ考え方です。
これに対して、中国禅第六祖の慧能(えのう)は、以下のように批評して います。
菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃
「菩提という樹も、明鏡という心もない。菩提もなければ、煩悩もない。 本来無一物だ。塵埃のよりつくところもないから払拭の必要もないではないか」といっているのです。まさに「一切法は空」です。これは、私の考え方と合致し ます。 煩悩などというものも、もともとないのだとということです。煩悩を破壊しようという心で修行、瞑想をしているうちは、ますます煩悩に囚われるだけだという ことです。
ご意見、ご反論をお待ちしています。
2002年2月
安孫子 洋
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02/01
ダーマ・コーナー 「涅槃の日」
2月15日は「涅槃(ねはん)/釈尊入滅(しゃくそんにゅうめつ)の日」。この日、ゴータマ仏陀は、たくさんのお花に囲まれ、2本の沙羅の木の間 で横たわり御亡くなりになった。廻りに集まった人たちに捧げた最後の御言葉は「私が死んだ後は、わたしの教えが皆の導きになるだろう。自分自身に正直であ れ。私の教えを実行する者、私の教えで生涯を送る者は、常に私のそばにいる。私の側近にいても、教えを実行しない者は、私のそばにいない。万事、万物は、 ひとつの状態から次の状態へと、常に変化し続けている。全ての物がこの自然の法則に従うのである。私も例外ではなく、その日が今来た。万物が変化する法を もってすれば、私の肉体が滅んだとしても何ら変わりはない。この肉体は、仏陀ではない。悟りが仏陀である。わたしの死を惜しむのではなく、自分自身の悟り を考えて欲しい。 悟りが開ければ、我々みんなが一つに成れるのである。あなた自身の光を見つけなさい。」であった。 2月15日、世界の仏教徒は追悼式を行う。これに足並み会わせて、我々も再度御布施をして、悟りを開こうとするのである。 「生と死の超越」と言う言葉は、しばしば仏経典に現れる。生と死とは、同じ課程における変化の段階である。生の延長に死がある。生と死は、同一物である こと。同一存在における異なった段階、同じ生命なのである。生命の同じ課程において、花が咲き、散って、種を撒き散らしていくと同様に。発芽が始まりで、 花開が終りではない。終りは、始まりである。始まりは、終りである。しかし、我々は、生からの離別の悲しさに取り付かれているため、誕生はいいが、死は悪 いと感受する。最終分析においては、我々は、死を恐れたり、死に驚いては、いけないのである。 「我々は、自然と一体化しているが故、病や死は、人生において避けられないものである」と 仏陀はおっしゃられた。物が常に変化するのは、当然のことで ある。死だけが何故悲しいことと、我々は考えるのか。死は、恐れるものではない。我々は、生活することや考案することに勇敢であるように、死に対しても勇 敢であるべきだろう。生死を超越すること、死に対して拘りを持たないようにすること、人生から切り放さないこと。万物に意味があり、成就する。我々は、常 に死の準備をし、万物に対し「ありがとう」と静かに、自然に、安らかに「さようなら」と言えるようにならなければいけない。たとえ死の間ぎわにあっても、 この不乱の心は、すばらしいものである。これが、仏の最後の教えだった。 我々は、これを学び、この理解と心構えを日常生活の全てにおいて持つべきであ る。
クボセ・ギョウメイ The Center Within による
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大晦日の礼拝の式は除夜の会と呼ばれる。出席者は阿弥陀ブッダの聖堂の前に集まって一年間に起こった諸事を静かに思い起こし、阿弥陀様の恩恵に感謝 する機会である。ろうそくに火を灯し、線香の煙の線が万物のはかなさ、無情を我々に思い出させる。 上記に象徴される教えの如く、年も過ぎ去るものの一つである。
除夜の鐘は、凡夫(ぼんぶ)が持っていると言われる108の苦難に打ち勝つ象徴として鳴らされる。(108の煩悩を除去する意味で鐘が打ち鳴らされ る。)花山信勝僧正の「おじゅずに纏わる話」の中で説明されているように「仏教では6つの感情が認知されている。すなわち、感情は、視覚、聴覚、臭覚、味 覚、触覚、それに知覚によって生ずる。 これら一つ一つの感覚が良い思い、悪い思い、無関心な感情、など18の感情から成っている。更に、良い思い、悪い 思い、無関心な感情は、それぞれが2つの種類に分かれる。快楽につながっているものと、つながっていないもの。18の感情を二倍すると36。この36の感 情は、人間が過去、現在、未来に渡って表された基本感情である。よって、36を過去、現在、未来と掛ければ、108の苦難になる。
108の除夜の鐘の音は、我々人間の弱さを知らせ、人生を深く反省すべく思い出さす。年の暮れ大晦日が我々に過去一年を思い起こさせ、同時に来る 年、未来を見つめさせる。
蹴り跳ねて
振り向きもせず
年越さん
仙覚
(訳者の意訳)
藤本芳彦開教師による(BCAパンフレット)
12月8日は「ボタイ(菩提)悟りの日」。釈迦牟尼(シュダールタ・ゴータマ)が永年にわたる黙想、努力のすえ菩提樹の下で悟りを開いた日。後に
彼は、覚者の
意味をなす仏陀と呼ばれた。これが仏教の始まりである。
シュダールタ(悉達多)は、皇太子として生まれた。ふつうの人間なら誰しもが欲しがる富強であった。しかし、皇子さまは、自己の内部に葛藤がおありで
あった。彼は、「人生の苦しみは、いかにして取り除くことができるか」を知りたかった。人間は全て、病、老、死などの苦に面したり、愛別離苦や憎い人と会
わなければならない怨憎会苦、求めても得られない求不得苦などがある。
シュダールタは、苦の質について考えた末「苦の根本は、無知にある」との結論に達した。この無知は「自己本位、愚鈍、どん欲」などいろいろな形で現れ
る。若きシュダールタには、様々な誘惑があった。例えば、彼が黙想にふけっていた時、美しい3人姉妹が彼に近づき、おどり、父親の御殿に戻って人生を楽し
むよう求め迫った。悪魔が現れ、彼の人生を脅かした、恐れを避けることも誘惑であった。多くの誘惑があった。シュダールタは、そのひとつひとつを抑制し
た。しかし、ひとつの誘惑を抑えると、また、別の誘惑が現れた。抑えようが無くなってしまった。次から次へと誘惑の連続であった。シュダールタは、それは
「どうしてだろうか」と考えた。それらの誘惑は、外から来るのではなく、彼自身の内部にあることに気づいた。全ての誘惑の根源が彼自身であることを実感し
たとき、善と悪と2つの対立する力を超越した。この偉大な発見が彼の「悟り」であった。
12月8日の朝、夜明けの明星が輝いていた。シュダールタは、苦の根本は彼自身にあること、自らが苦の病根であることを知った。これこそが偉大な悟りで
あった。彼が全ての誘惑の基であるゆえ、彼こそ、これらの誘惑に勝たねばならない。彼は人生そのものの真実を発見した。これが仏教である。
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